インテリジェントよりインテレクト

インテリジェントよりインテレクト

渡部昇一著「指導力」より抜粋

 

イギリスのP.G.ハマトン(『知的生活』の著者)は、知能には“インテリジェンス”と“インテレクト”のニ種類があると言っている。

 

インテリジェンスというのは、量的に測定できるような、すなわち(入学試験のように)あらかじめ解答がわかっている問題を処理する能力である。たとえば、色々なデータや統計から一つの結論を導き出したり、あるいは、新しい技術をどう利用すれば工場の能率がどれだけ高まるか、といったことを考えるのは、すべてインテリジェンスの能力である。

 

ところが、世の中にはあらかじめ解答が用意されていない問題も多くある。たとえば、この絵が美しいかどうか、あるいは一つの事象から何を連想するか、といったようなことは、確かに知能ではあるけれども、その時点では誰も正解を知らない。5年なり10年たってみると、どれが正解だったかわかってくる。そうした問題が直感的にわかるのがインテレクトである。

 

これをハマトンの比喩を借りて言えば、インテリジェンスは“駝鳥の足”で一歩一歩を地に着けて物事を処理していく能力であり、一方のインテレクトは大空をはばたいて峰から峰へ一気に飛ぶ“鷲の羽”のようなもので、飛躍が要求される知能の働きである。

 

世界各地から刻々と人って来る情報を処理・分析する能力は“駝鳥の足”であり、これはコンピュータの力を借りて迅速正確にやるべきである。

 

ところが、ある高級官僚の婦人が商社員の娘時代にアメリカで過ごした時の「ピアノが要らなくなった時の処理費用を負担させられた」という体験から、開戦(第二次世界大戦)のニュースを聞いた瞬間から「日本が確実に負ける」と信じて疑わなかったという。このように箸にも棒にもかからないような末梢情報から「日本が負ける」ことを連想する能力、つまり“鷲の羽”的な能力は、完全に個人の資質によって左右される。

 

従って、よく情報不足を嘆いている人がいるが、そういう人は“鷲の羽”的能力が欠如しているのであって、情報それ自体はいくらでもあるということが少なくない。そして“情報力”という場合は、インテリジェンス・レベルの情報をどれだけ持っているかだけでは十分でなく、断片的な末梢情報から全体像を把握するインテレクトな能力がどれだけあるかのほうが重要である。

 

このようなインテレクトな情報力を強化するには「情報を遮断したほうがむしろ効果的だ」というきわめて逆説的な考え方が出てくる。即ち、“想像力”つまりインテレクトな知能の働きを高めるためには、時には情報を遮断したほうがよい。

 

従って企業の経営者も、たまには2~3週間一人でスイスかオーストリアの山の中へ行って、モーツアルトでも聞きながら今後の社会がどうなるかといったことを考えたら、意外とわかるのではないのだろうか。少なくともドイツのモルトケはそういう生活をした。